2018年12月24日月曜日

【平成 30 年度 市民がつくる自主講座「地形を知って考える 私たちのまちづくり」】報告

「崖博士に聞く!国分寺崖線の成り立ち」

 講師:芳賀ひらくさん(東京経済大学客員教授/古地図研究家)
11 月 25 日(日)午前 10 時〜 12 時 @小金井市公民館貫井北分館






今年度のはけ文自主講座のテーマは「地形」!
第 1 回は「崖博士に聞く!国分寺崖線の成り立ち」と銘打ち、古地図研究で知られる芳賀ひら くさんに講師をつとめていただきました。当日は、会場の定員 50 名のところ、なんと 70 名 もの方が足を運んでくださり、席が足りなくなり増席するという大盛況ぶりでした。

「ブラタモリ」に代表されるような地形への関心の高まりに加え、地震や豪雨など、自然災害
 が頻発していることもあり、テーマへの関心の高さ、崖博士・芳賀さんの人気ぶりを実感しました。
以下、講座の要旨です。



崖にまつわる考察

〈崖の定義〉
ほとんどの自治体は「30 度を超える傾斜のもの」としている。これは宅地造成等規制法施行令 による定義を準用したもの。高さについては 2m を超えるもの(または 2m 以上)としている自 治体が多いものの、一部の自治体では 3m 以上など、異なる定義がされている。
地形上の分類では、江戸・東京の崖には侵食崖と人工崖がある。国分寺崖線は、侵食崖。


〈崖線という言葉〉
「崖線」という言葉は、新しい言葉である。2009年11月、岩波新明解国語辞典 第七版に初めて 立項された。→(かなり大きな)川が台地を浸食してできた崖が連なって成す線。「国分寺―」
河川が長年にわたって台地を削りとってできた 崖の連なり。「立川―」(集英社国語・3)
2018 年には広辞苑第七版に登場。ただし、説明が間違っている。「線上につらなった崖」とあるが、 線上、ではなく線状、である。
崖が「線状」に連続していれば「崖線」。一般にはそれでもよいかも知れない。しかし地形学的には、 そのような理解では不十分で、誤りですらある。










「国分寺崖線」の命名と定義

Wikipedia の「国分寺崖線」の説明に誤り
がある。「武蔵村山市緑が丘付近に始まり (中略)世田谷区の砧地域、玉川地域南部 を通り、大田区の田園調布を経て同区の嶺 町付近に至る」とあるが、「立川面と武蔵 野面とは国分寺崖線によって分けられてい る」のであれば、地質図で見ると国分寺崖線の東端は、世田谷区成城付近までである。 また、「古多摩川 ( 関東ローム層下に存在 ) の侵食による自然堤防と考えられている」 という記述も論外である。「自然堤防」と は、堆積地形のこと。「崖線」は、侵食地 形である。


(20 万分の 1 地質図「東京」1987 年)



「国分寺崖線」が、若い地質学者によって「発見」され 命名されたのは1952(昭和27)年。福 田理・羽鳥謙三「武蔵野臺地の地形と地質 東京都内の地質 IV」第4節「各論」の第1項「武蔵野 段丘」『自然科学と博物館』第 19 巻に初出する。


「この段丘は北多摩郡砂川村九番から平兵衛新田、府中町飛地、国分寺町、小金井町、東京天 文 台敷地、深大寺、神代村滝坂・入間を経て、世田谷区成城町に至る明瞭な崖線で次に述べる立川段 丘と接している。この崖線を国分寺崖線(Kokubunji cli -line)と呼ぶことにする」
1950 年発表の「武蔵野夫人」には「国分寺崖線」という言葉は出て来ない。「はけは即ち、峡(は け)にほかならず、長作の家よりはむしろ、その道から流れ出る水を遡って斜面深く喰い込んだ、 一つの窪地を指すものらしい」とのみある。


「国分寺崖線」の地形学上の本質は 「段丘崖」である。「段丘」でない急斜 面は「国分寺崖線」ではない。地形学 的に「崖線」という言葉は認証されて いない。段丘、もしくは段丘崖 という。


(地図アプリ「スーパー地形」から)


ガケ=ハケ ではない

「ハケ」とは《崖線そのものをいうのではなくて 崖線に刻み込まれた特殊な形》を言う 田中正大『東京の公園と原地形』2005 参照:『季刊Collegio』No.64, 2017 Spring

(鈴木隆介 2000 年)






急傾斜部 ( ガケ ) の連なりがすべて「国分寺崖線」なのではない。 「崖線」と「開析谷壁」は区別されなければならない。
それは、成因(営力)も異なり、時間(時代)も異なり、形(方向)も異なるからである。


「国分寺崖線」はなぜ、いつできたのか ?

関東平野は侵食地形ではなく堆積地形。武蔵野台地は、 多摩川の扇状地である。その上に富士山の火山灰が降り 積り、関東ローム層が形成された。8 〜 4 万年前に起源 する「国分寺崖線」は 少しずつ削られてできたのでは なく、氷河性海面変動と一般的に言われている、激変(カ タストロフィ)に成因があったのではないか。
氷河性海面変動とは、寒くて海面が下がると侵食作用が 激しくなり、崖ができる。低地が段丘になる。暖かくな ると海面が上がる。10 万年単位で海面が上がったり下 がったりを繰り返してきた。
最近 14 万年間の海面変動のグラフを見ると、6 万 5 千 年前の氷河性海面変動によって、国分寺崖線が形成され たのではないかと私は思っている。しかし、侵食基準面 の変動だけから河岸段丘(河成段丘)の 成因を引き出 すことはできない。海面変動のほかに 気候変化(雨量) や地殻変動 などの要因も考慮しなければならない。地 層を掘って調査しなければ正確なところは分からない。


(貝塚爽平 1983 年)

東京は、自然災害リスクが世界一

ミュンヘンの再保険会社が算出したデータでは、東京・横浜が、自然災害リスクが世界でダントツ 1位。首都圏の地形は、基盤の上に砂と泥が約3000m 日本アルプスより深く積もっている。これ だけ深いとどこに活断層があるかなんで分からない。ここに 3600 万人が生活している。世界的に 例がないほど人口が集中している。
1939 年(昭和 14 年)に、東京緑地計画が策定された。計画区域は東京 50km 圏、962.059ha。 環状緑地帯計画とも言い、日本の都市計画および公園史上初めての大規模かつ具体的なマスタープ ランだったが、郊外の地主などが経済成長が阻害されるとして大反対、計画は頓挫した。
現在の東京は破綻した都市計画の結果、世界一野放図に広がってしまったメガロポリス(巨帯都市) である。「一極集中のメリット」が「デメリット」になり、もはや「デンジャラス」になっている。
そんな中残された国分寺崖線の緑地帯は非常に貴重である。いま、緑地を残すことの重要性は、ま すます高まっている。


(「クロワッサン」特別編集・防災 BOOK 2014 年)



古地図に色を塗ってみよう

この後、参加者に色鉛筆が配られ、昭和 14 年の地図に色を塗る作業をしま した。机が足りず、ほかの部屋から借りて何とか間に合わせました。最初に 開析谷底を流れる川から始め、田んぼ、等高線の順に塗っていきます。最後 に、都市計画道路の線を引きました。実際に自分で色を塗り、線を引くこと で、この道路が地形を無視して引かれた線だということが実感できたのでは ないでしょうか。


1:10000 都市計画図 (1939(昭和 14)年) に着色。 緑色は等高線、黄色は田んぼ、
青色は野川及び水路、赤色の線は都市計画道路







防災ジオラマを展示

調布市の NPO 法人 「防災・災害ボランティアかわせみ」 の代表の方が、防災ジオラマを持参してくださり、急きょ、 隣接する IT ルームで展示しました。帰りにみなさん立ち 寄って興味深そうに見て行きました。




まとめ

参加者は小金井市のほか三鷹、国分寺、小平、調布、府中 など近隣市からの方、川崎市や八王子市、墨田区、杉並区 などからの方もおられ、関心の高さを感じました。アンケートには、「もっと聞きたかった !!」という要望や、「地層も歴史も積み重ねのなかで、自分たちが生活してい ることが分かった」「学校の授業で、もっと太古から学ば せたほうがよいと思った」など、様々な感想が寄せられま した。「また芳賀先生を呼んでほしい」との声もいただい たので、ぜひまた企画出来ればと思います。 ご参加いただいたみなさま、ありがとうございました !!
        

レポート:安田桂子(はけの自然と文化をまもる会)


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